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芸大で押井守が言いたかったこと

あらかじめ書いておきますが、私がこのブログで何を書こうが誤解が解かれるなんてことを期待しておりません。

未だに、「押井守の着ているトレーナーにプリントされている犬が瞬きしている! これって怪奇現象?」と言っていたり、どこの誰か知らない人の【耳をすませば】批判をいっしょくたに押井さんのコメントと信じたり、押井守が自分の色を出させようとしたので『攻殻機動隊 SAC 2nd GIG』が面白く無くなったと思い込んだり、「引退宣言したのになんで押井守はまだやっているの?」など、それらは全くの虚構では無いですが、それぞれ多くの誤解を持たれて広まっているわけです。
先日にも11月12日に東京芸術大学で開催された、『第2回 映像メディア学サミット LOOP-02 マンガ・アニメの映像メディア学的再考』というトークセッションでの押井さんの

日本のアニメーションはオタクの消費材と化している、 90パーセント以上はただの消費材に過ぎない、 表現というレベルの話じゃない。 コピーのコピーのそのまた劣化コピーになっちゃっている。

というコメントが一人歩きして結構な反響があり、少なからずのオタクを怒らせたようですが、結論から言うとあのコメントは今の日本アニメの現状をそのまま語ったに過ぎず、『萌えアニメ』や『ハーレムアニメ』の批判の話ではありません。まして、それらを喜んで観ているオタクへの批判でもありません。

私の私見では押井さんはオタクに対して親身になってあーだこーだ言ってあげるほど優しくありません、かなり突き放しています。

繰り返しますが、押井さんは現在の日本のアニメの現状についてそのまま語っただけです。 まぁ言い方が優しく無いですが…

それでは、あのトークセッションで押井さんが何を言いたかったか? 
新たな誤解を生むことを恐れずに私の言葉で書きますと…

まず、司会者が押井さんが以前「アニメやゲームといった形式の文化は創始者がいなくなると共に終わってしまうのではないか?」と語ったことについて真意を問うわけですが、それに対して押井さんは

「人類の何千年の歴史の中で絵画や彫刻、音楽などの文化・芸術に比べて、映画なんてたかだか100年ちょっとの歴史ぐらいしか根拠を持たない。 その映画の中でさらに特殊なジャンルであるアニメーションが廃れて滅んでいくようなことは別にめずらしいことではないと思う。」

と答えており、更に特殊なジャンルであるアニメーションについて、

「アニメーションというものは何も根拠を持たない曖昧な(ぬえ)のような存在である」

と語り、

のような存在、現実に根拠を待たない存在であったからこそ、世の中から放って置かれた。」
「放って置かれたおかげであらゆる形式を試すことができ、日本のアニメーションはここまで取りざたされる存在に成りえた。」

自身について…

「僕はアニメーションを映画にすることに全知全能を傾けてきた。 まんが映画でなく、映画として。」
「絵柄がリアルであるかどうかは問題ではない。アニメーション特有の記号ドラマに頼らずに表現という形式まで煮詰めることでアニメーションは映画になるんじゃないか、そういう意図で作ったのが【天使のたまご】でそれを作ったおかげで仕事に不自由な監督になってしまった。 アニメーションという形式に忠実に、表現として純化させるほど喰えなくなる。」

ここで表現という言葉が出ますが、押井さんが何を指して表現と言っているのか?

「表現とはアニメーションを工芸品として扱っていくこと、珠玉の名品として。」
「アニメーションとは現実に何も根拠を持たない映像のことを言っているが、鉛筆で紙に描いたり、マウスを使ってデスクトップ上で作りこむことで映像を工芸品として磨き上げることができる。これは実写では真似が出来ない、現実を写し撮っている以上、実写の映像は現実の劣化コピーに過ぎない。」
「そしてアニメーションでしかできないこと、必ずしもドラマを排除する必要はないが、ドラマを排除しても成立する映像の可能性で言えばアニメーションしかありえない」

実写映画とアニメーション映画を比べて…

「実写映画は現実を切り取って写し撮っていることで比較的容易に映画として成立させることができるが、現実を切り取っているが故に現実からの関係性から自由になれない、一方アニメーション映画は現実に根拠を持たない鵺的な存在で、記号で成り立っているが故に観る側の脳の補完作用を要さねば映画と認識されないが、その記号をまるで言語のように扱うことで作り手が自由にドラマや思想をのせることができた。」
「しかし、自由であるが故に作り手が全世界や全歴史に対してまで好き勝手言ってしまう危険性がある。 だから、アニメーションの監督は実写の監督のように現実に対して誠実になれない。」
「そういったことは宮さん(宮崎駿)や富野(由悠季)さんや、亡くなった出崎(統)さんなどみんなやっているし、たぶん僕もやっている。 だからこそ、そういう危険性があるからこそ、アニメーションの中にドラマや思想を蔓延らせるなというのが僕が30年以上やってきた結論である。」
「現実に検証されない表現を野放しにするとどうなるか? それは非常に危険な悪の匂いがする。 しかし、危険な匂いがするからこそアニメーションが若い人を引き付ける理由でもある。」 
「僕はジジイ(好々爺)になるつもりはないから、専らそのを楽しもうと思っているんだけれどそうであることは明らかにする必要がある。」

と、このセッションのテーマの結論付けをします。

その後、司会者がもう一人の登壇者 キム・ジュニアン氏に今後の日本アニメのアジアにおける在りようを問うわけですが、その答えの後、押井さんが

「かなり優しく言ってくれてますよね。」
「僕に言わせれば、もっと最低なんですけど、僕の周辺の事情で見る限りほとんど日本のアニメーションはオタクの消費材と化している、 90パーセント以上はただの消費材に過ぎない、 表現というレベルの話じゃない。 コピーのコピーのそのまた劣化コピーになっちゃっている。

と、やっとこのコメントにたどり着くわけです。

キム氏の答えの中で出たフランスなどが制作したアニメーション映画【イリュージョニスト】について、

「確かにすばらしい作品です。 さっき言った工芸品という言葉に相応しい作品です。 是非観ることをお勧めします。」

と、正確にはただでは褒めてはいませんが(笑)、表現として、工芸品として映画のレベルに達したアニメーション作品を例に挙げます。


このような感じで、ある種テーマを限定することで押井さんが言いたかったことを抽出してみたわけですが、本当はもっと面白い話や、危ない話(笑)があったのですが泣く々々割愛しました。

話の内容を読んでもらえば解ると思いますが、アニメーションというメディアの特性危険性を知り尽くした押井さんだから言えることです。
先のコメントに反発した人の中には「売れない作品ばかり作っている押井が言うな」なんてのも有りましたが、【天使のたまご】を作って干された押井さんだからこそ言えることです。(笑)

また、「老害」なんて批判もありますが本人は「老害上等!でも本当のことはハッキリと言わせてもらうよ」という構えです。 素敵です(笑)。

オタクの消費材云々について、押井さんなら

「オタクが面白いからそれでもいいと言うのならそれでいいじゃない? でもいつか日本のアニメーションはなくなっちゃうかもしれないよ」

と言うのではないでしょうか? 私の私見誤解かもしれませんが…


それでは…
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tag : 押井守 東京芸術大学 コピーのコピーのそのまた劣化コピー

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